家を出る決意、共依存からの脱出【私が私の人生を生きられるようになるまで その4】
こんにちは。ホメオパスの福田真央です。
先日から【私が私の人生を生きられるようになるまで】という題で、私のホメオパシー体験記(その1 その2 その3)を書いています。
では、今日はその4です。
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生まれてはじめて両親に怒りをぶつけてから数週間後、2009年4月下旬にホメオパシー健康相談会を初めて受けました。
家族の問題で悩んでいること、職場での悩み、時々ひどい頭痛がすること、生理不順がひどくて3~4か月こないこと、生理痛がひどいこと、首から背中にかけてバキバキにこっていること・・・たくさんのことを話しました。
自分のことを話すことで心が軽くなり、考えが整理されるのを実感しました。
そして、出してもらったレメディーで初めての好転反応も経験しました。
喉の痛み、微熱、頭痛といった風邪のような症状で、中でも面白かったのが、左の鼻から鼻水が数日間バンバン出て止まらなかったことです。
「どうして左だけ?」と不思議に思いながらひたすら鼻をかむ毎日でした。
そして6月、家の近所に一人で住んでいた母方の祖母が倒れて入院しました。
ある日、祖母と病室で2人きりのとき、祖母に「真央ちゃんは結婚せずに、〇〇(母の名前)とずっと一緒にいて守ってやってね。」と言われました。
祖母は母が長年にわたり父から受けている仕打ちを分かっていて、母のことが心配でたまらなかったのでしょう。
私は「うん、うん。そうするね。」と返事をするしかありませんでした。
祖母の兄弟がお見舞いにきてくれたときも、「真央ちゃんがそばにおってくれたら安心や。〇〇(母の名前)ちゃんのことしっかり守ったってね。」と言われ、私は結婚もせず母の人生に責任を取らなくてはいけないのかと、なんだか重荷に感じました。
8月になり、一時は順調に回復してもうすぐ退院できそうだった祖母が亡くなりました。
慌ただしくお通夜、葬儀が終わり、家に帰って祖母が亡くなった悲しみを実感していたときです。
父が「お通夜や葬儀を取り仕切った俺に対する労いはないのか?!」と突然怒鳴り出し、暴れて祖母の祭壇を破壊しようとしたんです。
母と妹と3人で懸命に父をなだめ、労いの言葉をかけましたが、しばらく父の怒りはおさまりませんでした。
「これ以上この家にいたら私は気が狂う。」
本気でそう思いました。
今まではこの家をなんとかしようと頑張っていたけれど、これ以上この人たちといたら私の気が狂ってしまう。
タイミングよく、この出来事があってすぐに数回目のホメオパシー健康相談会の予約が入っており、担当ホメオパスの先生にこのことを話しました。
先生は私の話を聞いて、真剣な顔で「真央さん。もう家を出たら?」と言いました。
祖母や祖母の兄弟から託されたこととは関係なく、あの家に母を置いて一人で出ていくことなんてできないと思った私は先生にそう伝えました。
「お母さんが心配なのは分かるよ。でも、そんな状態でもお母さんは真央さんが考えているほど辛くないのかもしれない。お母さんはそんなお父さんといることを自分で選んでいるのかもしれないよ?真央さんはご両親と共依存になっていると思う。」
私は先生から言われた共依存という言葉に激しく反応していました。
私はただ両親が仲良くいてほしくて、平和で幸せな家庭になってほしくて頑張ってきただけなのに、母を守りたかっただけなのに、依存なんてしていない!!
この相談会後、かなり長い間、共依存ということは受け入れられませんでした。
でも、「私がいなければ両親の関係はますます悪くなってしまうだろう、私がこの家をなんとかしなければ!!」と、両親との関係にガッツリと食い込んで、母を置いて一人で家を出ることなんて考えもしなかった私は、立派な共依存だったと今は思っています。
「真央さんは今までお母さんのために生きてきたけど、これからは自分の人生を生きなくちゃ。」
自分の人生を生きる。
先生の言葉にガツンと頭を殴られたようでした。
自分の人生を生きる。
あぁ、そっか。私、今まで自分の人生を生きていなかったんだ。
自分の人生を生きないと・・・。
それに、ホメオパシーをやっているとこれからもたくさん抑えていた感情が出てくるだろう。
この家でこの状況にいながら出てきた感情に向き合うのは、かなりきついんじゃないか?
1人になってゆっくり自分を癒したい・・・。
私の心は決まりました。
家を出よう。
母のことは心配だけど、これ以上は耐えられない。
私は私の人生を生きたい!!
家を出ることを決意してから数か月後、私は母に家を出ようと思っていることを打ち明けました。
母は「みんな私を置いて行ってしまう。」と、とても悲しそうでした。私も申し訳なさでいっぱいで、すごく辛かったです。
家を出て他県で働いている弟に家を出ることを告げると「お母さんを置いて行くのか!?」となじられました。
結婚して家を出ていた妹は「お姉ちゃんの人生だから、お姉ちゃんが思うようにしてね。」と応援してくれました。
妹以外みんな私をあてにしすぎ・・・。
だけど私自身、両親に愛されたいがために、大事にされたいがために、私の存在価値を認めてほしいがために、長い長い間、両親の仲裁役になろうと懸命に頑張っていたのかもしれません。
そして、翌年2010年4月。
由井寅子先生が学長をされているホメオパシーの学校CHhomに入学するのを機に、私は実家を出ました。
毎回毎回、長くなってごめんなさい(;^ω^)
最後までお読みいただきありがとうございました。
ちなみに下の写真は実家を出たときの私、ではなくインドの街中でチャイ飲んでる私です( ´艸`)
あぁ~、インドまた行きたい~~!!(笑)
それではまた!